瀬戸内海の島々② ~大津島 回天隊(特攻兵器回天)編~
※今回と次回は真面目な内容が多く、長文です。
盛港を出て、松山へ。
松山からは防予フェリーで、山口県柳井市に向かいます。
ここで、カメラの替えの電池を忘れてきたことに気づいて、松山の家電量販店を回りましたが、NEX-5Nの予備バッテリーや充電器は無く・・・
NEX-5NはUSBケーブルとカメラ経由で充電できるタイプでないことが、こういうときに辛い。
この時点で残り55%くらい。
厳しいなぁと思いつつ、時間も無いので三津浜港より乗船。
2時間半ほどの航海。
柳井港に到着して、徳山を目指します。
予約したビジネスホテルが徳山にあるからです。
到着が21時くらいだったかな。
居酒屋しか開いておらず、晩ご飯に苦労しました。
翌日、朝ご飯のバイキングをたらふく食べ、徳山港へ。
9時半発の大津島行きです。
次の馬島で下船。
20分弱かな。
団体客も一緒です。
(ご老人の団体が大分から来たらしい)
相変わらず野郎一人は僕だけ。
この日はあいにくの雨
しかも結構な勢いで降っている。
風も強い。
おかげで船がめっちゃ揺れます。
こりゃ船酔いする人はダメでしょうね。
僕も長時間だとつらいかも。
大津島の目的は、「回天」という太平洋戦争時代の特攻兵器と、その記念館の見学。
島を一周。
それから、馬島港にいるという猫達とのふれあいです。
が、雨のため、猫はほぼあきらめました。
それから、島一周のために予約していたレンタサイクルもあきらめました。
小雨なら乗ったけど、傘が反転するほど風も強いし・・・
下船後、早速大津島ふれあいセンターへ。
レンタサイクルのキャンセルを話に行くためです。
受付の方と話を少々。
ここは300円で自転車が借りられます。
冬季は事前予約制。
ということで、回天記念館や発射訓練基地跡、見張所跡をめぐることに。
それでも雨風が強く、結構厳しい道のり。
特に見張所跡は山の中にあり、整備があまりされていない遊歩道を山登り。
泥だらけになり、こけそうになりつつです。
まずは回天記念館。
正直、事前には調べもせずに行っていたのが申し訳ない感じでした。
記念館という名前ですが、慰霊の意味合いが非常に強い。
兵器の説明や歴史の展示がメインではありません。
あくまでも、「回天」という特攻兵器で殉職した方々がメインです。
(個人的には正しい姿だと思いますが)
入口のプレートは、回天で殉職した方々が刻まれています。
なんだか雰囲気が普通の資料館とかとは違いますね。
元々は、回天隊の宿舎だったところです。
外には、回天の模型。
そもそも、「回天」とはなんぞや?というところですが、
回天・・・太平洋戦争末期、”天を回らし、選挙区を逆転させる”という願いを込めて、人間魚雷「回天」は誕生した。
これは、魚雷に大量の爆薬を問祭祀、隊員自らが操縦して敵艦に体当たりするという特攻兵器で、
隊員の訓練基地が置かれたここ大津島には、全国から20歳前後の精鋭が集まり、毎日厳しい訓練を繰り返していた。
そして、窮地に立つ祖国を守るため、多くの若者がここから出撃していったのである。
(回天記念館のパンフレットより)
詳細はwikiが非常に詳しいです。
入館。
受付の方以外には僕だけ。
非常に静かです。
必見は、視聴覚コーナーのビデオ。
元回天隊のインタビューが非常に心に残ります。
特に、「釣りをするときに、海に手を入れるんですよ。そしたら仲間が語りかけてくれるような、そんな気がするんですよ」というセリフ。
あと、回天に搭乗するときの見送り。
「最初はね、知らない人に見送られるんですよ。
でもね、桟橋に近づくにつれて、段々お世話になった人、先輩、上官に見送られるようになってね、そうすると人間涙もろくなるもんなんです」
とか。
回天は、潜水艦に3基か4基搭載され、敵地へ向かいます。
その潜水艦に乗るときに、見送りがある。
「もう二度と本土の土は踏めないと、そう思うわけですね」
というのは事実なのでしょうね。
回天には、隊員と整備員の2名の乗船が基本。
ハッチは一度閉めると開かないというのはまやかしで、実際には内側から開く。
そうやって脱出した隊員もいたそう。
出撃記録を見ると、2,3回と出撃している隊員もいたから、事実であろうと思います。
(単純に、回天での出撃機会に遭遇せず、帰港した人もいたかもしれませんが)
水圧差があるから、開かないこともあると思いますが、水が入ってきて差が無くなれば開けられるはずです。
外からは工具で開けられたそう。
実際戦果はそれほどでもなかった(わかっているものとして)
撃沈したのが4隻、大破1隻、小波4隻。
そもそも魚雷を改造しているので、直進性はあるものの、機動力にかけるというところがあっただろうというのが一つ。
それから、wikiにもあるように、体当たりしてから爆発するまでに時間を要したこと。
船から離れている状態では、最大限の威力を発揮できない。
これを持って、欠陥品だとか、非人道的だとか言うつもりはありませんが、「想い」と「現実」との差が辛いところですね。
隊員の多くは、日本がやられる、占領されて大切な人がひどいめに遭うかもしれない。
故郷を守りたいという気持ちでいたのです。
この特攻兵器が敵の巨大母艦を一撃で沈められると。
そうすれば、日本を守れると思っていた。
実際記念館の遺品には、家族に向けたメッセージとして、「自らが死ぬことを誇りに思ってください」という内容が多いのです。
それだけ、自らあげられるであろうと思っていた戦果に自信を持っていたのでしょうね。
「自分の力で」というところが大きいと思います。
中でも妻への遺書が・・・
佐藤章大尉(少尉より特進)は数少ない妻帯者の殉職者で、妻へのメッセージが記念館に展示されていました。
昭和19年10月、すでに死を決意した。
思い残すことはない。
遺品を整理して、最愛の妻に送る。
まりゑよ、強く生きろ。
今後の一生は、君の意志のままだ。
他に嫁ぐもよし、独身で暮らすもよし。
ただ、君は私の永久の妻だ。
二世を契りし妻だ(二世を契るとは、来世まで約束した約束のこと)。
この世にて、他の妻になろうとも、私の妻であることに変わりはない。
極楽にて待っている。
子ができなかったのが残念だ。
佐藤の子が無いのが残念だ。
一子貰い受け、私の遺志を継がせるもよし。
他に嫁ぎ、一子をあげて私の遺志を継がせるもよし。
ただ、他の男のもてあそびものとなるな。
もし遺品が邪魔になれば、山形に送れ。
それまでは遺品を守り、生きろ。
というもの。
その後、奥さまはどうなされたのでしょうね。
僕はそちらが気になります。
と、長くなったので、見張所の写真で〆ます。
雨で全然うまく撮れていませんね。
もちろん、ざんざん降りの中、こんなところに上がるのは僕だけ。
泥だらけで危険です。
天候が悪い時は行かないほうがいい。
転んで意識失ったら、生命の危機です。
見張所に向かう山道で見える景色。
フェリーが見えますね。
馬島港です。
その手前の焦げ茶の建物がふれあいセンター。
その左側に見える大き目の白い建物が小学校。
小学校は元訓練基地の跡地に建てられているそう。
今回は行けませんでしたが、敷地内にいくつか廃墟があるみたいです。
回天は色々と思うところがありますが、長くなりそうなのでやめておきます。
ただ、
・特攻はテロとは違う。市民は決して巻き込まない。
・戦時中でも、天皇陛下のために死ぬのではなく、大切な人を守るために命を賭けた。
・死にたくて死んでいる特攻隊員なんて、誰一人としていない。
ということは間違いないだろうと思います。
そして、「平和だ」「戦争はよくない」と、それだけで思考停止している人には見てもらいたいなって思いました。
次→Ⅵ.瀬戸内海の島々② ~大津島 旧回天発射基地編~
目次→Ⅰ.瀬戸内海の島々② ~計画&愛媛上陸~(目次)
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