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常紋トンネル 北辺に斃れたタコ労働者の碑

こんばんは、ウコン茶です。

今日は北海道の歴史の暗部を示す本の話。

「常紋トンネル 北辺に斃れたタコ労働者の碑」

上記サイトは下記の本を元にしています。




タイトルの「常紋トンネル」ですが、そもそもそれが何なのかって話から。
このトンネルはJR北海道の石北本線(旭川~網走間)にある鉄道のトンネルです。
開通は1914年(大正3年)。
石北本線は「新旭川駅」から始まります。
実家の最寄の駅です(「新」旭川駅とは言っても無人駅です)
常紋の「常」は常呂(ところ)、「紋」は紋別を差しております。
市町村合併により、今は北見市と遠軽町を結ぶ形になっているようです。

この「常紋トンネル」には、昔から人柱伝説が残っていました。
とは言っても私は聞いたことがありません。
実家からは遠いし、親戚もそこにはいませんしね。
人柱とは、現代では生贄になって新しいものをTRYし、レビューする人を差していますね。
(例:新しいバージョンのウィルス対策ソフトを入れてみたら、OSが起動しなくなったんだけど・・・(´・ω・`))
ここで言う人柱とは、人柱の名前の通り、人が柱となって埋まっていることそのものを指しているのです・・・

古くは明治時代。
当時のロシア帝国(現:ロシア連邦)からの脅威に対抗するため、明治政府は北海道の開拓に躍起になっていました。
北海道にアイヌ民族はいたものの、多くの土地は未開墾であり、冬は-30度にもなる極寒の地。
当然ながら、開墾には相当な苦労を伴うとされていたわけです。
そこで政府は次の3種類の労働者を北海道へ送り込んだのです。
それは「失業した武士」「屯田兵」「囚人」でした。
それはなぜか。
共通するには、後には引けない人達なのです。
失業した武士とは、明治が始まって以降の廃刀令などの士族身分の廃止に伴い、仕えるところもなく、仕事がなくなった身分の人を指します(当時はかなり多かったそうです)。
屯田兵は北海道の開墾を行う義務、北方を警戒する任務を持った兵士です。
明治政府は、ロシア帝国との戦争も想定しており、武器などを持った兵士を中隊レベルで送り込み、彼らに北海道の警備と開墾を命じました。
彼らは家族と共に北海道へ渡り、石狩地方から開墾を始めていったのです。
兵士ですから、当然身分上では士族を対象とした募集となり、上記の「失業した武士」というのももちろん対象になっていました。
彼らは屯田兵として未開墾の土地と一戸建ての家屋を与えられ、開墾をメインとし、時には戦争にも参加しました(日清戦争、日露戦争)。
私の先祖はこの屯田兵に当たり、はるか四国から北海道の「上川郡東川町(当時の東旭川)」に入ったようです。
五男だったようなので、仕事も無く、屯田兵になったってところでしょうねぇ。
母方の祖先も宮城から入植しており、おそらくは似たような理由でしょう。
当時は北海道に行くなんて、地元に居て普通に暮らせるなら選択するわけがないですからね。
そして囚人
有名な網走刑務所を含め、空知、釧路から道路や、屯田兵の家屋を建設するために労働していました。
作られた道路は「囚人道路」とも呼ばれた程。

札幌~国道12号~旭川~国道39号~上川~国道273号~国道333号~北見峠~遠軽~国道242号~留辺蘂~国道39号~北見~網走

おおよそ350kmくらいでしょうか。
車で5時間強かかります。
その中で北見峠から網走までを「囚人道路」と呼んでいたそうです。
150kmくらいですかね。
硫黄山での硫黄精錬もそうで、当時の安田善次郎(安田財閥の創始者)が進めたもので、
釧路鉄道を敷き、釧路港から純度の高い硫黄を輸出し、利益を上げました。
当時の安田財閥は鉱山の開発を大規模に行っていました。
囚人は硫黄の粉末で両目を失明したりしていたそうです。
官にはこういった記録はいっさい残っていないそうです。
他、過酷な労働の末、多くの囚人が死に、硫黄山の労働も大きな問題となったため1894年(明治27年)以降、廃止されたのですが・・・
その代わりに、使役させられたのは「タコ労働者」と呼ばれる人達でした。

「タコ労働者」とは、囚人の代わりに道路や鉱山の開拓、鉄道の建設など主に土木関係の工事をしていた肉体労働者で、
タコ部屋と呼ばれる小屋に監禁され、監視付きで過酷な労働を強いられていました。
1日15時間ほど肉体労働をし、休み無し。
食事も立ったまま、病気になっても見てもらえない。
逃げたら、みせしめにリンチに遭う。
当時の北海道は開拓に必死で、労働者は足りないわ、国が請け負っていては間に合わないわで、民間と契約し進めていたようです。
お役所仕事は今も昔も年内予算守りきりですから、一度発注したら年度をまたぎたくない。
だから工期は自然と短くなる。
北海道は雪が降ったら土木工事が進みにくくなるため、冬までが勝負。
下請けとしては軍隊式で統制し、恐怖政治で逃げなくさせることで一気に短期間で工事を進める必要があったわけです。
そこで、タコ部屋に監禁し、監視し、毎日労働させた。
労働者は全国各地から浮浪者や出稼ぎ労働者などを集めていたようです。
金を持っていないことをわかっていながら、酒や、遊郭で女遊びをさせ、それを前借金とし扱い、労働させるというやり方。
土建は今も昔も、下請けの下請けの下請けみたいな請負が多く、その末端にタコ労働者がいたわけです。
(つまりピンハネされた、残りカスしか残っていないから、働いても働いても返せない状況が続くようになっていた)

ここまで来ると予想が付くとは思いますが、常紋トンネルもそのタコ労働者が工事をしたものです。
そこで、なんらかの事情で生きたまま埋められたと思われる人骨が発見されたのが1974年のこと・・・
過酷な労働の末に、生きたまま埋められたタコ労働者の背景には何があったのか。
彼はなぜ埋められなければならなかったのか。

北海道開拓におけるタコ労働者の実態を書いたノンフィクションが「常紋トンネル」なのです。
私がなぜこの本を読んでいるかと言うと、「坂の上の雲」がきっかけだったりします。
坂の上の雲といえば、まさに明治、日清戦争や日露戦争の頃。
そこに「金子堅太郎」という明治の政治家が登場します。
日本大学の初代校長。
彼は1885年に、内閣の指示で北海道を視察し、復命書(出張報告書)にこう記しました。

「彼ら(囚人)はもとより暴戻の悪徒なれば、その苦役にたえず斃死するも、
尋常の工夫が妻子をのこして骨を山野にうずむるの惨情とことなり、
また今日のごとく重罪犯人の多くして、いたずらに国庫支出の監獄費を増加するの際なれば、
囚徒をしてこれを必要の工事に服せしめ、もしこれに堪えず斃れ死して、
その人員を減少するは監獄費支出の困難を告ぐる今日において、万止む得ざる政略なり」


要約しますと、
「囚人は悪人なのだから、過酷な労働に耐えられず死んでも、妻子を残して山野に骨を埋めても仕方がないことだ。
また、昨今は重罪人が多くなり、国庫の支出が増加している。
囚人を工事に使役して、これに耐え切れずに死んで、囚人が減少するならば、
監獄費用を支出するのが困難な今日においては、費用抑制の策となりうる」

金子堅太郎は、大日本帝国憲法を起草したり、皇室典範を整備したりしたそうですが、
一方では囚人の死をもいとわない過酷な労働を生み出していたことになります。
それが囚人の大量死を招き、タコ労働者をも生み出した、と。
タコ労働者は監視付きで労働しっぱなしですから、何か記録することもできませんでした。
埋められた労働者は、タコ労働の実態を何十年後の先に常紋トンネルで人骨となって伝えたのです。

なぜ自分が坂の上の雲をきっかけにしているのかというのも背景はあったりしますが、
それはまた別な話。
こういった裏の歴史というものは、記録がなかなか残っていないし、当時の現役世代も亡くなってしまうので、証言も得にくい。
それを足で一つ一つ調べて歩くということがいかに大変なことか。
敬意を表します。

この常紋トンネルの人柱伝説と坂の上の雲、安田財閥が関係してくるなんて想像できないことですが、
背景をたどっていくと行き着くものが必ずあるのですね。

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